ヒカルさんの動画に見る昨今の学歴社会批判について思うこと【バズキャリア】

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どうも、トビタテ!留学JAPAN6期生のRem(@ry0_c3h7)です。

この前とあるユーチューバーの動画を見ました。それは「学歴を持たないあなたへ」というタイトルの動画です。人気ユーチューバーであるヒカルさんの動画です。

バズキャリアだかなんだか分かりませんが、動画の内容はタイトルの通りであって、学歴を持たない人々が、所謂大企業に就職できるようしようという内容です。ヒカルさんが所属する事務所VAZの事業の一環として展開されているそうで、「学歴関係なく誰もが活躍できる社会の実現」を目指しているみたいですね。

この動画を見たときのファーストインプレッションは、「面白いことやってるな」でした。僕はこの事業とは全く無縁の大学卒業予定者であるんですが、僕の専門が、教育社会学というまさにこういった教育によってもたらされる不平等について考える学問なんです。

正直なところ、国立大学や一部の私立大学の大卒者や大学在籍者はこのヒカルさんの掲げる理想に対して良い印象は持たないと思います。後にも触れますが、学閥や大学ブランドによって大学卒業後のキャリアを築くことが一般化されている日本において、こうした一部の利益を得ている層が反発するのは見え見えですよね。

ちなみに僕はこの事業に対して反対はしていませんが、そううまくはいかないと思っています。一部のベンチャーなどは乗ってくるかもしれませんが、学歴社会を色濃く反映した大企業や有名企業がこの事業に乗ってくるとは思いません

しかし、この動画を見て昨今の学歴社会批判に対して非常にモヤモヤしたので、そのことについて今日は教育社会学の視点から述べていこうと思います。

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学歴社会による社会的な生まれ変わり

みなさんのこれまでの教育で、こういったことを経験したことはないでしょうか。算数のできる学生とそうでない学生とに分けて少人数教育を行う。成績によってクラス編成を行う。などなど子供の能力によって教育を行っていることが、日本の教育には存在しています。

学歴社会論も能力によって教育を行っていることも、実は他の先進社会にはあまり見られない日本に特徴的な教育の社会の捉え方です。「学歴」が職業的な地位や給料を左右する重要な要因の一つであるということは、常識になりつつあります。例えばお隣の韓国や台湾とかもそうです。

学歴が学歴取得後の人生に大きな影響を与えてしまっていることを問題にする議論が、一部の雑誌や新聞などでもこれほど活発に行われ、学歴社会論としてひとつのジャンルにを形成するほどまでに広まってる社会は日本のみらしいです。ノルウェーの社会学者ガルツングによれば、日本では出自による社会階層の決定の後に、教育を受けることによる二度目の社会的出生が起こると唱えています。

イギリスなどのように生まれた家庭によって今後の人生が決まってしまうような社会ではなく、日本はそうではありません。

そこで人々が最終的にどの社会階層に所属するかどうかは、生まれた家庭によるのではなく、どのような学校に入り教育を受けたかによって、つまりどのような学歴を持つかによって決まります。それが今の日本ということになっています。

しかし、学歴取得までの競争は平等であるとは言い切ることができません。

ただ、学歴社会という社会認識は、「生まれ変われるものであるなら生まれ変わりたい」という人々の願望を後押しし、その願いを教育学校へと押しやるイデオロギーとして作用したと考えることもできます。戦後の教育の拡大はこうした思想の元で広がっていったと、社会学では考えています。

学歴社会をひとくくりに悪とするのではなく、学歴社会的な思想が教育を広めていったと考えると、それは一概に絶対悪だとは言い切れないはずです。

学歴は実力を反映しないのか

学歴主義批判の中には、学歴が実力を反映しないという批判も含まれていることがあります。

偏差値の高い大学を卒業したからと行って、会社で求められる能力と大学での学問は結びつかないだろうという意見のことです。たとえ、大卒だからといって、それが仕事をする上での実力を示すわけではないとし、威信の高い大学出身者は学閥を通じて特権的な地位を与えられていることを批判する意見が見られます。

つまり、18歳という青年期のたった一時の能力だけで、その後の階級が決まってしまうというところに学歴社会の不公平さ不合理性を見出そうとする議論が最近の学歴社会批判なんです。

アメリカにおける学歴主義

しかしこれと反対にアメリカにおける学歴差別は、アメリカ特有の多様性の問題と結びつく場合においてこそ問題となっています。学歴は実力を反映していないのにもかかわらず、学歴によって人生の大半が決まってしまう。しかも、アメリカの場合、その背景には学歴を得るまでの社会的不平等が隠されているんです。

高い学歴を持たない人々は、マイノリティであるアジア系、貧困家庭出身などの社会的に恵まれない人々であって、教育を受けられないことによって彼らをさらに低階層に留めておくのは不当であると考えるのがアメリカの学歴主義議論です。

このように、アメリカの学歴社会論は、日本の学歴社会論と正反対の性質なんですね。

アメリカが学歴取得前の不平等にフォーカスをあてていることに対して日本は学歴取得後の不平等さに焦点を当てているんです。

現在の日本の学歴社会論は、学歴取得後の社会的な生まれ変わりが強調されるあまり、学歴取得以前にどのような不平等が入り込んでいるかはガン無視している状況です。

ヒカルさんについては動画は全く見たことありませんし、彼がどういう人間でどういう思想をしているのかは知りませんが、少なくとも彼がやろうとしていることは、これまでの日本の学歴社会論が唱えてきたことと同じように、学歴取得後の不平等にフォーカスを当てていると考えて良いでしょう。

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学歴社会論の皮肉的な側面

ところで学歴社会論とはある意味で皮肉な議論でもあります。なぜなら学歴社会に対する批判が広まれば広まるほど、人々は学歴の価値を再認識し、より高い学歴を求めて行動するようになるからです。

分かりやすい例が、学歴を得なかったことによって不平等を認識し、学歴の価値を次の世代(子供)に押し付けようとする親の存在です。芸能界にはたくさんいますよね。

学歴社会批判を耳にした人々が日本において学歴社会を完全に悪であると文句を言うますが、一方においては自分の子供には学歴が学歴が一番と何度も教え込みより高い学歴を求める競争へと誘うのです。

そもそも、学歴社会という社会認識が、教育が社会的地位の向上に役立つという価値を社会の隅々にまで押し広げるうえで効果的に作用しているんです。

つまりより多くの人々がより長く教育を受けるようになり、その結果、教育を通じて得られた知識や能力、即ち学歴が認められる社会になって行ったということです。

受験勉強は役に立たないのか

学歴批判の根底には、学歴取得のために、「役に立たない」(僕はそうは思いませんが)とされるものをひたすら「暗記」しなければならいということに対しての批判があります。

しかし、それは裏を返せば、どのような出身階層の人間でも、その勤勉さと努力を積めさえすれば受験に勝つことができ、高い学歴を得ることができるということです。

つまり、この今の受験システムは、”一見”誰にでも社会的に生まれかわるチャンスを保障した制度であると捉えることもできます。そのチャンスを逃したことで不平等を被っても文句は言えないのではないでしょうか。(一見という言葉を使っている理由は後で分かります)

この学歴社会という考えは、教育が誰にでも開かれたものであることをある面で強調していることと同義であるわけです。

つまり中学や高校で習うことが役に立たないから、それができる人間だけが評価されるのはおかしいとする考えは筋が通っていないんですよ。その学力の取得を通じて得た、大学での学び(教養や専門性)を評価しないのは負け犬の遠吠えと言わざるを得ません。自らチャンスを逃しているのですから。

(学歴を得た人が、学歴社会のあり方を糾弾するのは別に構わないと思います。だってその誰にでも開かれたチャンスに気づき行動した上で、それがおかしいと言っているんですからね)

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それでも不平等が隠されている

と、これまで学歴社会はいいよ!みたいなことを述べてきましたが、これからはちょっと違います。先ほど、一見という言葉を使ったこともこれから説明します。

最初の方に、学歴批判は学歴取得以前の不平等から目を背けていると言いましたがそれです。

学校においてどのような成績を収めるか、どのようなレベルの学歴を取得するかは、「生まれ」に影響される部分が大きいです。つまり誰にでも学歴取得の機会は開かれているように見えても、実際は別の要因でそうではなくなっているのが現状です。

ソーシャルキャピタルという考えになるんですが、子供の学力取得には、親の経済的な状況や、親の学歴、親の言動など様々な要因に起因しています。

ところが、不思議なことに、学歴批判をする人間の多くはこうしたことに全く目を向けていません。昨今の公立学校の授業料無償化はこうした分野に目を向けていますが、、、

しかし、学費などの直接的な支出に変わって、今度は塾に子供を入れるかどうか、家庭教師をやってるかどうかという面での間接的な教育費が子供の成績を左右するとみなされるようになります。

つまり、結局のところ、日本も生まれによる社会階層の決定が思った以上に大きいんじゃないかということです。いくら教育の機会均衡を進めたとしても、それまで向かっていたお金が別のベクトルに向かうようになり、さらにまたそれが学歴取得のための格差となりうる訳ですね。

だからこそ僕は大学完全無償化にも反対しています。

僕が大学無償化に反対する理由【教育社会学的に考える】

2017年5月21日

こういった学歴社会批判を解決するには、ヒカルさんのような取り組みも面白いですが、本当の意味で高等教育を受ける機会の均衡が保障されるようなシステムを構築することであると考えます。ま、難しいですが。

最後に結論を述べておくと、

僕は学歴社会を変えるのは難しいと思っている

ということです。教育の機会均衡に関する話題はつきませんが、非常に難しいということを、教育社会学を専門としている身として感じているまでです。

注意

これはあくまでも僕の個人的な意見なので間に受けないでくださいね。このブログは自分の意見や言いたいことをいう場としてのメディアですので。